【市指定:建造物】久松ミャーカ(巨石墓)群~ひさまつみゃーか(きょせきばか)ぐん~
みゃーかは、久貝、松原両字にまたがって、かつては多数あったと推定されるが、現在確認できるのは4基である。みゃーかについて久松では古くから“ぶさぎ”とよびならわしている。稲村賢敷(いなむらけんぷ)・金子エリカ両氏の研究報告があり、創建は14~16世紀ごろと推定される。
稲村説「宮古在来の風葬墓地(ふうそうぼち)で、15世紀末ごろまで巨大なものへと発達、その後沖縄本島の影響をうけて横穴式へ移行」金子説「1360年ごろから元・明動乱をさけて、優秀な技術をもって大陸から渡来した一群の人々によってつくられた」などである。
久貝ぶさぎは、仲宗根豊見親の夫人宇津免嘉(うつめが)の父安嘉宇立親の墓と言い伝えている。仲宗根豊見親のころに宮古の石造建築物はいちじるしく発達したとみられるだけに、久松みゃーか群は、宮古の「古琉球期」時代を解明していく上で重要なカギを秘めているものと考察される。
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