国関係

【国指定:天然記念物(地質)】宮古島保良の石灰華段丘~みやこじまぼらのせっかいかだんきゅう~

宮古島保良の石灰華段丘

宮古島保良の石灰華段丘は、宮古島の南海岸に位置し、東平安名崎の北西、通称・宮土(みゃーどぅ)の海抜30mの海成段丘の段丘崖下に所在しており、海抜約5m付近から低潮位までの緩斜面上に、汀線にそって長さ約70m、幅最 大約30mにわたり発達している。リムストーンプールは長径約10m~数㎝位まである。その[...] 続きを読む ⇒

【国登録:有形文化財】旧仲宗根氏庭園~きゅうなかそねしていえん~

旧仲宗根氏庭園_800

忠(ちゅう)導(どう)氏(うじ)仲宗根家(なかそねけ)は15世紀末から16世紀初めにかけて宮古島の首長となった仲宗根豊見親玄雅(なかそねとぅいみゃげんが)を祖とする一門で、名乗頭に「玄」を名乗り、多くの宮古の頭職を輩出した由緒ある名家である。 庭園の作庭年代については家主の聞き取りから昭和4年に住宅[...] 続きを読む ⇒

【国指定:名勝・天然記念物】八重干瀬~やびじ~

八重干瀬

八重干瀬という名称の由来には諸説あり、8つの干瀬からなるからとも、干瀬が幾重にも重なっているからとも言われている。八重干瀬は、池間島や島尻では「やびじ」、狩俣では「やぴし」等と様々な呼称があり、1999(平成11)年の「八重干瀬」の2万5千分1地形図発行にあたり、国土地理院から呼称の統一を求められた[...] 続きを読む ⇒

【国登録:有形文化財】大野越排水溝~おおのごしはいすいこう~

大野越排水溝

宮古島市の大野山林に位置し、1934(昭和9)年に建設された隧道である。この地域は低湿地の広がる土地であったため、水はけが悪く、常に湿潤な土地であった。国は、農業上の土地の利用増進を図る目的で、大野山耕地整理計画を策定し、その事業のひとつとして、大野越排水溝が建設された。構造は、アーチ型の鉄筋コンク[...] 続きを読む ⇒

【国指定:史跡】先島諸島火番盛「遠見番所」来間遠見~さきしましょとうひばんむい「とうみばんしょ」くりまとうみ~

来間遠見

宮古島市5ヵ所(池間・狩俣・島尻・来間・砂川)江戸時代、鎖国体制下の1644(順治元)年に、薩摩藩支配の琉球王府によって設置された、海上交通の監視・通報(烽火(のろし)のろし)機能をになった遠見番所跡群。先島諸島は琉球列島の最西端に位置し、東シナ海の緊張に直面しており、対外関係と鎖国体制の完成を示す[...] 続きを読む ⇒

【国指定:史跡】先島諸島火番盛「遠見番所」砂川遠見~さきしましょとうひばんむい「とうみばんしょ」うるかとうみ~

砂川遠見

宮古島市5ヵ所(池間・狩俣・島尻・来間・砂川)江戸時代、鎖国体制下の1644(順治元)年に、薩摩藩支配の琉球王府によって設置された、海上交通の監視・通報(烽火:のろし)機能をになった遠見番所跡群。先島諸島は琉球列島の最西端に位置し、東シナ海の緊張に直面しており、対外関係と鎖国体制の完成を示す遺跡とし[...] 続きを読む ⇒

【国指定:史跡】先島諸島火番盛「遠見番所」島尻遠見~さきしましょとうひばんむい「とうみばんしょ」しまじりとうみ~

島尻遠見

宮古島市5ヵ所(池間・狩俣・島尻・来間・砂川)江戸時代、鎖国体制下の1644(順治元)年に、薩摩藩支配の琉球王府によって設置された、海上交通の監視・通報(烽火(のろし)のろし)機能をになった遠見番所跡群。先島諸島は琉球列島の最西端に位置し、東シナ海の緊張に直面しており、対外関係と鎖国体制の完成を示す[...] 続きを読む ⇒

【国指定:史跡】先島諸島火番盛「遠見番所」狩俣遠見~さきしましょとうひばんむい「とうみばんしょ」かりまたとうみ~

狩俣遠見

宮古島市5ヵ所( 池間・狩俣・島尻・来間・砂川) 江戸時代、鎖国体制下の1644(順治元)年に、薩摩藩支配の琉球王府によって設置された、海上交通の監視・通報(烽火:のろし)機能をになった遠見番所跡群。先島諸島は琉球列島の最西端に位置し、東シナ海の緊張に直面しており、対外関係と鎖国体制の完成を示す遺跡[...] 続きを読む ⇒

【国指定:史跡】先島諸島火番盛「遠見番所」池間遠見~さきしましょとうひばんむい「とうみばんしょ」いけまとうみ~ 

池間遠見

宮古島市5ヵ所(池間・狩俣・島尻・来間・砂川)江戸時代、鎖国体制下の1644(順治元)年に、薩摩藩支配の琉球王府によって設置された、海上交通の監視・通報(烽火:のろし)機能をになった遠見番所跡群。先島諸島は琉球列島の最西端に位置し、東シナ海の緊張に直面しており、対外関係と鎖国体制の完成を示す遺跡とし[...] 続きを読む ⇒

【国指定:史跡】大和井~やまとがー~

大和井

大和井(やまとがー・井戸)は平良市街の東北に位置する泉(洞井)である。「雍正旧記(ようせいきゅうき)」(1727年)に記されている内容から、1720年ごろに掘られたと考えられている。井戸の周りは大小の切り石を円形に積み上げてあり、上り下りの通路には石段が設けられている。 伝承によれば、首里王府派遣の[...] 続きを読む ⇒

1 / 212