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【市指定:史跡】ドイツ商船遭難之碑~どいつしょうせんそうなんのひ~

ドイツ商船遭難之碑

1873(明治6)年ドイツ商船ロベルトソン号が福州からオーストラリア向け出航したが、台風にあい宮国の沖合の大干瀬に座礁し難破した。宮国の人々は荒れ狂う激浪の中に、危険をおかして救助し、34日間親切ていねいに手厚くもてなし、帰国させた。ドイツ政府は宮国の人々の救助に感激し皇帝ウイルヘルムⅠ世は、187[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】アマ井~あまがー~

アマ井

「雍正旧記」に”あま井”洞井であって掘年数不明″と記されている。東のアナ井とともに、宮国住民の貴重な水資源となっていた。1956 年から1962年頃まで、ポンプを使用して旧上野村内に簡易水道として給水し村民生活向上に大きな役割をはたしていた。 ※雍正旧記に記されている宮国村の川は「側草川・但洞川・掘[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】アナ井~あながー~

アナ井

「雍正旧記」(1727年)に東川洞川だが掘削年数は不明″とある。宮国村の番所跡の東に位置しているので当時は役人たちによって「東井」と呼ばれていたらしい。水道が普及するまでは、宮国住民の生活を支える貴重な水資源であった。 夜も昼も、ひっきりなしに人が集まり、水くみ、洗濯、水浴などでにぎわっていた。 ≫[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】好善ミガガマ御嶽~こうじんみががまうたき~

好善ミガガマ御嶽

「宮古島記事仕次」に「久場嘉按司の女子普門好善が事」と題する記事がある。琉球人玉城はくばか接司のひとりむすめ普問好善に思いを寄せ、やがて男の子を儲けた。玉城は八重山からもどり、好善が夜泣きする子に、「流浪人の子、なぜ泣くのか、早くトルミ、トルミ」というのを聞いた。玉城は「私はおやけ(商人)だ。流浪人[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】テマカ城跡~てまかじょうせき~

テマカ城跡

城辺字保良の東平安名崎からトユミャが石を投げて一夜のうちに石垣が築かれた、との伝承がある。大正の頃まで高さ6~7尺もある石垣が、存在していたといわれているが戦後の土木工事の材料としてほとんど持ち去られた。中の御嶽の祭神は、ヤマトガムキリウヌスと呼ばれている。久場嘉按司とたびたび合戦したが力及ばず敗死[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】大嶽城跡~うぷたきじょうせき~

大嶽城跡

14世紀の中頃、宮古島に猛威をふるった与那覇原にほろぼされた大嶽按司の居城の跡である。城跡公園内の東側にある御嶽が、大御嶽(ウプウタキ)で、祭神はピギタリユーヌヌスである。ピギタリは、按司の長男で戦乱の世相を嘆いて農業に励んだ。与那覇原との戦いで二男知呂の按司は、東の門(中御嶽)を守って戦死し、三男[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】御船の親御嶽~ううにのしゅううたき~

御船の親御嶽

「宮古島記事仕次」に、「野崎満さりゃ南の島より迯れ帰りし事」と題する記事がある。御船の親は船頭として琉球へ上り、帰途逆風にあって南の島あふらという所に漂着した。御船の親は殺されたが水主野崎満さりゃは島の女に取合って夫婦の契りを結び、島の風俗を女から教えられた。満さりゃは女の協力によって島を脱出し、野[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】ピンザアブ遺跡~ぴんざあぶいせき~

ピンザアブ遺跡

ピンザアブは横浜国立大学の長谷川善和教授らによって、1980(昭和55)年発掘調査された。人骨やネズミ類・シカ類・ヘビ類・大型のヤマネコのものと思われる化石等が発見されている。国立科学博物館の佐倉朔教授の鑑定によると人骨はおよそ2万年前の旧石器人の人骨であることがわかり、ヤマネコのものと思われる化石[…] 続きを読む ⇒

【市指定:天然記念物・植物】好善ミガガマ御嶽の植物群落~こうじんみががまうたきのしょくぶつぐんらく~

好善ミガガマ御嶽の植物群落

好善ミガガマ御嶽を擁する植物群落で、御嶽林であるため長い間開発などから保護され、宮古島南岸地域の自然植物を見ることができる。 植物群落のほぼ中央部に拝所があり、拝所の周囲には胸高直径60~80cmのタイワンエノキ4本、40cmのクロヨナ2本が生育し、うっそうとしている。この自然植生を取り囲むようにヤ[…] 続きを読む ⇒

【市指定:天然記念物・植物】大嶽公園の植物群落~うぶたきこうえんのしょくぶつぐんらく~

大嶽公園の植物群落

大嶽城跡公園と野原岳(108.6m)東斜面に広がる植物群落である。 植物相の高木層にはヤブニッケイ・モクタチバナ・ハマイヌビワ・ショウベンノキ・クロツグなどが生育し、低木層にはアカテツ・シマヤマヒハツなどが見られる。アカテツなどの林床にはヤブラン・ヤブニッケイの幼木などが見られる。野原岳の東斜面は石[…] 続きを読む ⇒