【市指定:史跡】四島の主の墓~ゆすまのしゅうのはか~
現在、狩俣には「四島の主の墓」といわれている墓が四ヶ所ある。この墓は、そのうちの1つである。この墓は、島尻・大神・狩俣・池間の四邑が遠望できる丘陵上にある。この墓の構造はツガ墓に似ており、周囲には石積みの外郭が二重にめぐらされ、南々西に向かって一枚岩をのせたアーチ門が築かれている。又、墓室は一室で墓口が2つ設けられている。この墓は近年まで「四島の主」の子孫により代々使用されてきたと伝えられている。
「四島の主」とは狩俣・島尻・大神・池間村の支配者の俗称で「雍正旧記」には「昔、狩俣四島の親童名百佐盛と申す人は狩俣・島尻・大神・池間合わせて四ヶ村壱人にてあつかい候に付き、四島之親と偽申由候」と記されている。又、「四島の主あやぐ」には「何からが如何からが親なたよ、墨からど筆からど親なたよ」と歌われており「四島の主」は文筆にすぐれていたことがうかがわれる。
「四島の主」は仲宗根豊見親の支配下にあって仁政を施したが、その業績としては狩俣・島尻を結ぶ「渡地橋」築造のほか農道の改修、狩俣・平良間の休憩所設置及び井戸の掘削等が伝えられている。
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