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【市指定:史跡】仲屋金盛ミャーカ~なかやかなもりみゃーか~
「仲屋金盛ミャーカ」は、忠導氏仲宗根家の東方、外間御嶽の北方にあって、忠導氏一門では、仲屋金盛の墓と言い伝えている。墓の規模や形態は、大半が土砂に埋もれて明らかでないが、石棺の蓋と思われる縦210cm、横120cm、厚さ22cmの巨石が露出している。仲屋金盛は、16世紀初頭に宮古島の主長であった仲宗[…] 続きを読む ⇒
【市指定:史跡】金志川泉~きんすうきゃーがー~
金志川泉は、金志川豊見親の屋敷跡より150mほど西側にある洞泉である。水壺は広くほぼ円形で水深は1mほどである。開口部から水壺までおよそ30段の階段が設けられている。「雍正旧記」(1727年)には「金志川・但洞川・堀年数不相知」とある。また、「宮古・八重山両島絵図帳」(1647年)には、おろか間切([…] 続きを読む ⇒
【市指定:史跡】マムヤの屋敷後・機織り場・墓~まむやのやしきあと・はたおりば・はか~
マムヤの屋敷跡は、保良元島の南方約200mほどの小丘陵にある。現在は周りの土が除去され、うず高い状態になっている。機織場は、東平安名崎の保良漁港入口より西方120mの北側岸壁にあり、畳2枚程の広さの空洞になっている。墓地は、同漁港入口より東へ約180mはなれた休憩所の隣にある巨石をくりぬいたようにし[…] 続きを読む ⇒
【市指定:史跡】観音堂経塚~かんのんどうきょうづか~
観音堂は1699(康熙38)年の創建で、定納船上下の安全祈願所として崇敬をあつめたと伝えられる。前庭にある経塚は、宮古における仏教伝来の事跡をかたちあるものをもって示す数少ない遺跡の一つである。碑文は、オモテ「経呪嶺( きょうじゅれい )」・ウラ「雍正丙辰冬白川氏恵道建焉 ( ようせいひのえたつふゆ[…] 続きを読む ⇒
【市指定:史跡】祥雲寺の石垣~しょううんじのいしがき~
祥雲寺は薩摩藩の建議で1611(万歴39)年山月和尚によって開山された。当時の寺域はどの程度であったかさだかではないが、1685(康熙24)年になって住職の輪番制(3年交替)を設けているところから、寺域もしだいに整備されてきたものと推定される。 「球陽」は1696(康熙35)年の大地震の際、寺院等の[…] 続きを読む ⇒
【市指定:史跡】漲水石畳道~はりみずいしだたみみち~
18世紀の始め、宮古の治山、土木工事が精力的にすすめられていたころ、各村むら(字)の道路巾は2間半に拡張、改修、あるいは新設されたと伝えられている。1696年大地震のあと土木工事の一環として、石畳道も2間半に拡張され、治山事業の中で豊富に得られたであろう石を切り敷きつめたものと推定される。石畳道は旧[…] 続きを読む ⇒
【市指定:史跡】保良元島遺跡~ぼらもとじまいせき~
当遺跡は、東平安名崎の根本近く、標高50~60mの台地に形成された14~15世紀頃の集落遺跡である。1965年H・メリヒャール氏と金子エリカ女史によって、その一部が発掘調査され、宮古産の土器の他・宋・元・明時代初期の中国製陶磁器片が出土している。元史「温州府志―オンシュウフシ―」によれば「婆羅公管下[…] 続きを読む ⇒
【市指定:史跡】鏡原馬場跡~かがみはらばばあと~
鏡原小学校の東南約1km旧城辺(ぐすくべ)街道の北沿いに位置する。この馬場は物納税として宮古・八重山島民を苦しめた「人頭税」の廃止と深い因縁を持つところとして伝えられている。 1887(明治20)年ごろから、宮古農民の間に「島政改革・人頭税廃止」を要求する農民運動が展開された。人頭税撤廃運動は旧支配[…] 続きを読む ⇒
【市指定:史跡】大川~うぶかー~
掘削年代は明らかでないが、「雍正旧記」(1727年)に「大川掘年数不相知歴代二成及大破候、康熈五拾六丁酉年修補牛馬之用水所」と記述されており、1717(康熈56)年に補修工事がなされていることから、18世紀初頭にはすでに大川が存在していたことがうかがわれる。 当時の人々の暮らしにとって、牛馬は重要な[…] 続きを読む ⇒