史跡と建造物
【市指定:建造物】平良第一小学校の正門と石垣~ひららだいいちしょうがっこうのせいもんといしがき~
平良第一小学校の石垣は、1932(昭和7)年頃に築かれた石垣と考えられており、建築後73年は経過している。現在、学校の敷地を囲っていた石垣のうち南側は校地拡張の為に無くなっているが、当時の正門を含む3辺の石垣は保存状態も良く残っており間知積みや布積み等、当時の石造建築技術の水準の高さを知ることが出来[…] 続きを読む ⇒
【市指定:建造物】西ツガ墓~にしつがばか~
益茂氏(ますもうじ)一門の墓は、東西二つ並列しており、いずれも“ツガ墓”と俗称されている。ツガとは升の意で、ツガ墓とは升のように真四角という意でも語られているが、他方、多くの人夫をやとい、石一升掘るのに粟一升をようしたということでツガ墓というとの伝承もある。岩盤を掘りおろしてつくられており、アーチ門[…] 続きを読む ⇒
【市指定:建造物】瑞福隧道~ずいふくずいどう~
戦前、比嘉下の島(すたのすま)・池原底(いけばるずぅく)・福地原(ふくちばる)・加治道(かじどう)一帯は湿地帯で、大雨のたびに大きな水溜まりとなった。特に池原一帯は湖のように2、3ヶ月も水が溜まり、農作物に甚大な被害を与えた。地勢は海岸地帯が高く排水路による水はけは不可能視されていた。 当時の瑞慶覧[…] 続きを読む ⇒
【市指定:史跡】ヌドグビアブ
ヌドクビアブは、カナマラアブから南西方向に1.5km程の森の中にある。深さは22m程で、洞口は2カ所にある。大きな洞口は幅3m、長さ25mで北東側から階段で降りることができ、もう一つの洞口は、天然橋でくぎられ幅3m、長さ7mの大きな井戸状の縦穴になっている。 階段から洞底に降りると、広間になっていて[…] 続きを読む ⇒
【県指定:史跡】スムリャーミャーカ
来間集落の南約800mにあるスムリャー(長間家)一族のミャーカ(巨石墓)で、古くは来間大殿ミャーカ、近代にはグンソーミャーカとも呼ばれ、大正時代まで使用されていたという。東西約9m・南北約6.5mの長方形で、高さは2.5mある。上は、3.5m×3mの大きさの板状の石でおおわれている。柱となっている石[…] 続きを読む ⇒
【市指定:史跡】タウワインミィアブ
タウワインミィアブは、ピャーズ御嶽(クンマウキャー御嶽)から旧町道105号線(一周道路)へ向かう道路と展望台への三叉路から50m程南、道路脇30m程の所にある。 深さは65mで、底には池が存在し、魚が確認された。 この魚は、目が退化し白色で、数十万年から百数十万年前に閉じ込められたものと推定され、国[…] 続きを読む ⇒
【市指定:史跡】ウスバリアブ
ウスバリアブは、伊良部島南側の長山の農道78号線の中頃から北に300m程のカナマラアブの斜め向かい(北東側)にある。深さは35m程で、洞口は幅2m、長さ4m程で直下14m程の所に第1着地点があり、大きさは南北に25m、幅10~15mの洞穴になっている。第1着地点から北方向に12mの横穴が発達しており[…] 続きを読む ⇒
【県指定:史跡】下地町の池田矼~しもじちょうのいけだばし~
崎田川河口近く、国道390号線に沿っている。この矼は、琉球王国時代、平良から久貝・松原・川満を経て、洲鎌・上地・与那覇へ通ずる主要道路の一部であった下地矼道と共に架設されたと伝えられている。「雍正旧記」(1727年)には「池田矼、南北長20間、横3間、高サ9尺5寸村北ノ潟陸原ニあり」と記録されている[…] 続きを読む ⇒
【県指定:史跡】野原岳の霊石~のばるだけのたまいし~
野原岳の南側中腹にあるが、元もとは頂上近くの北西側斜面におかれていた。霊石は、琉球石灰岩でつくられており、直経が110cm、高さが135cmの円柱形である。およそ600年ほど前、野原岳一帯を支配していた大嶽按司が、守護神としてこの霊石をつくり、野原岳の頂上付近にたてたと伝承されている。 地元では、こ[…] 続きを読む ⇒