有形文化財
【市指定:有形民俗】パチャ(端)の石段~ぱちゃのいしだん~
1970年頃まで来間島には整備された港も車道なく、島への生活物資や人の交流もすべて石段近くの浜に小船で乗り着け、この石段を登って集落へ運び、島からの人や物資も 又、この石段を降りて浜から島外へと運び出していました。 島民は、この石段を集落の東端にあることから「パチャ(端)の石段」と呼び親しみ、来間島[…] 続きを読む ⇒
【市指定:有形文化財】ミャーツ墓~みゃーつはか~
この古墓は、宮古特有のミャーカの形態を継承しており、外周部を縦7.6m、横10.6m、高さ2.2mの規模で大きな切石を積み上げ、アーチ型の石造部を正面に配置しており石積の技術は精巧を極め内側には石室が2つあり、それぞれが縦2.8m、横3.4m、厚さ40~50㎝程の巨石で覆われている。 伝承に拠れば、[…] 続きを読む ⇒
【市指定:古文書】河充家の系図~かわみつけのけいず~
河充氏とは、川満大殿を元祖とし名乗り頭に「真」の字をもつ家系である。保管しているのは大殿の子孫、洲鎌部落の松村家である。 系図には初代より12代までの人物の生年月日、役職名、死亡年月日等が記入されており、字体も楷書、草書、正書と種々である。筆跡も異なる部分が見受けられるのは、何代目かが書き残した物を[…] 続きを読む ⇒
【市指定:歴史資料】向裔氏本村家関係資料~しょうえいうじもとむらけかんけいしりょう~
名乗り頭に「朝」の字をもつ系統は、宮古では「向裔氏」と呼ばれ、沖縄本島の向姓の流れをくむものである。いくつかの系統があるが、今、出自の明らかなのは二つの系統のみである。一つは、浦添親方朝師と多良間の土原氏・計志真良との間に生まれた子・朝裔を祖とする屋号「多良間」の系統。もう一つは、北谷里之子朝乗(の[…] 続きを読む ⇒
【市指定:典籍】恩河里之子親雲上の墓碑~おんがわさとぬしぺーちんのぼひ~
旧藩末期に建造されたもので、現存する墓碑では比較的古いものである。砂岩(高さ62cm、横33cm、幅上部5~14cm、下方17cm)を材料として使用している。 碑には右肩より「支流長真氏恩河仁也、乾隆年間卒。向姓恩河里之子親雲上墓・同治十一年壬申在番同氏花城親雲上記」の文字が刻み込まれており、下方に[…] 続きを読む ⇒
【市指定:有形民俗】ぐすくべのアギイス(力石)
戦前は各集落で青年による力試しが盛んに行われていた。角力もその一つであるが、今日でいう重量上げに相当するのが「アギイス(力石)」である。各集落の青年会場(現公民館)には大小二個のアギイスが備えられていた。娯楽の少ない昔は、農作業を終えた青年らが三三五五集まり、アギイスで力試しを行っていた。大きな石は[…] 続きを読む ⇒
【市指定:典籍】本村家「報本」碑~もとむらけ「ほうほん」ひ~
この「報本」碑の書は、尚泰王時代の三司官向有恒(宜湾親方朝保)が、一門(向裔氏)である下地頭職向朝祥(本村朝祥・在任1851~76年)に贈ったものである。 この碑がどこで造られ、どこで彫刻されたか明らかでない。碑は直方体の石材を用い、右上より「同治甲子仲冬穀旦、向朝祥敬建、報本、向有恒書」の文字が刻[…] 続きを読む ⇒
【市指定:建造物】平良第一小学校の正門と石垣~ひららだいいちしょうがっこうのせいもんといしがき~
平良第一小学校の石垣は、1932(昭和7)年頃に築かれた石垣と考えられており、建築後73年は経過している。現在、学校の敷地を囲っていた石垣のうち南側は校地拡張の為に無くなっているが、当時の正門を含む3辺の石垣は保存状態も良く残っており間知積みや布積み等、当時の石造建築技術の水準の高さを知ることが出来[…] 続きを読む ⇒
【市指定:建造物】西ツガ墓~にしつがばか~
益茂氏(ますもうじ)一門の墓は、東西二つ並列しており、いずれも“ツガ墓”と俗称されている。ツガとは升の意で、ツガ墓とは升のように真四角という意でも語られているが、他方、多くの人夫をやとい、石一升掘るのに粟一升をようしたということでツガ墓というとの伝承もある。岩盤を掘りおろしてつくられており、アーチ門[…] 続きを読む ⇒