Tag ‘御嶽’

【市指定:無形民俗】川満の棒踊り~かわみつのぼうおどり~

川満の棒踊り

川満に伝わる厄払いの踊りで島言葉では「ぼう・っふ」と呼んでいる。 伝えによる踊りの由来は、1686年頃、川満村に「プーキ」(疫病)が大きく流行し、村人達が次から次へと死んでいった。そのため各家庭では悲しみに明け暮れる毎日が続いていた。これを憂いた村の役人達が神に伺いを立ると、その結果、「全すべて部の[…] 続きを読む ⇒

【市指定:有形民族】ツヌジ御嶽~つぬじうたき~

ツヌジ御嶽

大世の主をまつる赤崎御嶽の遙拝所(仲取り)で、毎年旧暦6月、8月、10月の甲きのえ午うまの日に例祭が行われ、また旧暦11月には御願が行われる。 御嶽の由来によると、昔、赤崎御嶽の祭日に出かけたが、途中大雨にあい、途方に暮れて大岩のかげに雨宿りし晴れるのを待った。雨はなかなかやまず赤崎御嶽まで行けない[…] 続きを読む ⇒

【市指定:有形民俗】スカプヤー御嶽~すかぷやーうたき~

スカプヤー御嶽

スカプヤー御嶽のある一帯は宮国元島である。スカプヤー御嶽はンナフカ祭りの根所として住民の尊崇する御嶽である。この御嶽には、白鳥と化して飛んできたルリツボの伝説があり、毎年9月中乙卯から未の3日間は牛馬も外へ出さず、ンナフカ精進をして祭りをすることになっている。このあたりの海岸は、昔の貿易場の面影を残[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】漲水御嶽と石垣~はりみずうたきといしがき~

漲水御嶽と石垣

宮古島創世の神話ならびに人蛇婚説話等にいろどられ、古代宮古人の源流をさぐる上からも貴重な御嶽である。南側石垣は目黒盛の玄孫・仲宗根豊見親(忠導氏祖)が1500年中山王府の先導で、八重山のオヤケ赤蜂征討にさいし、神霊の加護で勝利したら神域を整備、奉納しようと誓願、めでたくがい旋した戦勝記念に築いたと忠[…] 続きを読む ⇒

【市指定:無形民俗】うるかクイチャー

うるかクイチャー

クイチャーは、宮古全域に古くから踊り継がれてきた野外の集団円陣舞踊である。「声合わせ」「神の魂を乞い願う」ともいわれ、願いが成就した時の喜びを老若男女が心を一つにして表現していくものである。もともとは、御嶽で豊年を祈願し、雨乞いをするのが習わしであったが、村の青年男女が寄り合い、歌い踊るようになった[…] 続きを読む ⇒

【県指定:史跡】上比屋山遺跡~ういぴゃーやまいせき~

上比屋山遺跡

砂川集落の南、高さ40mの琉球石灰岩丘陵にある14~15世紀の遺跡で、南側の砂川元島遺跡(うるかもとじまいせき)とあわせて広い集落跡を形成している。遺跡内からは、宮古式や八重山式と呼ばれる土器や青磁・沖縄製陶器・南蛮陶器などが見つかっている。特に青磁が多く、その解釈をめぐって「倭寇の根拠地」説・「貿[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】佐和田ユークイ~さわだゆーくい~

佐和田ユークイ

佐和田ユークイは、佐和田線から西に200m、佐和田の集落街から北へ200m程の所にあり、祭神は、大世之主(うふゆぬしゅう)と唱える。大世之主は1457年沖永良部島から伊良部島に渡ってきたと伝わる。元々の佐和田ユークイは白鳥崎にあったようであるが、現在地への移動は1644(順治元)年の烽火の制の後と考[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】乗瀬御嶽~ぬーしうたき~

乗瀬御嶽

伊良部島の南東端、渡口の浜への入口近くの左側にあり、遠見村の首長だった大金主(うぷがにしゅう)の娘「玉メガ」を祀っている。 乗瀬御嶽の祭祀に「カンウリ」というのがあり、これは、琉球の交易時代に伊良部も関わっていたことを立証する内容も含んでいる。また、「玉メガ」が神様にめとられたのが、父大金主が雨乞い[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】ピャーズ御嶽(クンマウキャー)~ぴゃーずうたき~

ピャーズ御嶽(クンマウキャー)

伊良部島の東側牧山にある御嶽で、「雍王旧記」(1727年)によれば、祀られている祭神は あからともがね(赤良友金)で1380年ごろ久米島より兄弟で来島して、高度な農耕文化、鉄の農具を伝えたと言われ、弟は比屋地の神となり兄は八重山おもと嶽の神になったという。 ピャーズの由来は、琉球では昔、神様が座って[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】黒浜御嶽~くろはまうたき~

黒浜御嶽

黒浜御嶽は、伊良部島字佐和田の西北西、佐和田の浜の礁湖に面する所にあり、兄妹産神を祭っている。島の村建ての伝説を持つ御嶽で、兄妹神の最初の子はブフズ(魚)で、二番目の子はアパ(魚)、三番目の子はウナズ(海蛇)だったので、それぞれ海へ放った。悲しんで、神様に相談すると、「夜、ユナの葉を二人の間に置いて[…] 続きを読む ⇒