文化財紹介

【市指定:無形民俗】野原のマストリャー~のはらのますとりゃー~

野原のマストリャー

旧暦8月15日に、上野地区野原で行われる豊年祭である。午前中、大嶽御嶽内の拝所で婦人たちが祈願し、夕方には、4か所のマスムトゥ子・寅・午・申(貢租を集めた場所)で、酒・肴を囲んで男たちが直会をする。公民館の広場では、青年男子による棒術4組と、婦人の踊りが演じられる。婦人の踊りは数列縦隊になり、前列は[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】島尻元島とンナカガー~しまじりもとじまとんなかがー~

島尻元島とンナカガー

島尻元島は現在の島尻集落の発祥地であると伝えられている。この元島は旧10月~12月に5回、島立の先祖をまつる神事が催されることで知られている。この元島の住民がいつ頃、どこからやってきて、この地に住みついたのか定かでない。第二次世界大戦直後までは6、7世帯が住んでいたが、現在では全世帯が元島を離れてし[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】四島の主の墓~ゆすまのしゅうのはか~

四島の主の墓

現在、狩俣には「四島の主の墓」といわれている墓が四ヶ所ある。この墓は、そのうちの1つである。この墓は、島尻・大神・狩俣・池間の四邑が遠望できる丘陵上にある。この墓の構造はツガ墓に似ており、周囲には石積みの外郭が二重にめぐらされ、南々西に向かって一枚岩をのせたアーチ門が築かれている。又、墓室は一室で墓[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】ミヌズマ遺跡の井戸~みぬずまいせきのいど~

ミヌズマ遺跡の井戸

この井戸は、久松地区公民館の東南およそ1.5kmの地点にある。この一帯は広範囲にわたってミヌズマといわれる集落遺跡となっており、宮古式土器や中国製陶磁器等の破片が表採される。また、井戸の近隣には東ブーンミャー・西ブーンミャー跡と言い伝えられている一角もある。 井戸の構造は、円形状掘抜井戸(直径1m、[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】西銘御嶽~にすみうたき~

西銘御嶽

増原集落の西北方およそ1kmほどの丘陵上にあって、北方は要害堅固な断崖で海に面し、さらに西方は白川浜へと通じている。崖下に“サガイ井”、さらに下って海よりに“カナギ井”と俗称する二つの井戸がある。御嶽のまわりに城壁とみなされる石垣の跡をみることもできるが、全体の規模ははっきりしない。 ただし、周辺に[…] 続きを読む ⇒

【市指定:有形民俗】キャーザ井~きゃーざがー~

キャーザ井

新里元島時代に掘られたと思われる古い井戸だが掘った年は不明である。1771年の「明和の大津波」後、新里元島が現在位置に移ってからも、専用井戸として利用されている。現代でも水道のない頃の人々の生活をささえ、貴重な水資源として重宝がられてきた。 1965年、上水道の全面普及に伴い、料飲水源として利用され[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】下地仁屋利社の墓碑~しもじみーやりしゃのぼひ~

下地仁屋利社の墓碑

1879(明治12)年、廃藩置県当時、旧藩吏を中心としたはげしい反対のなかで、政府に協力した下地仁屋利社は、群衆に殺された。遺体は腰原嶺のアブに捨てられたが、警視派出所員の手によって、那覇の護国寺に葬られたという。世にいうサンシー事件であるが、利社が新時代にいち早く賛成したことでサンシー事件とよばれ[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】住屋遺跡―俗称:尻間~すみやいせき―ぞくしょう:しいま~

住屋遺跡(俗称:尻間)01

住屋遺跡は、概ね14~17世紀初期頃の集落跡である。1982(昭和57)年2回にわたる発掘調査の結果、14世紀頃と推定される竪穴住居址1基と16~17世紀初期と推定される平地住居址・石敷住居址・円形状建物跡・竪穴炉址・溜井戸等の遺構を検出。 遺物では、土器片・石器(石錘・たたき石)・貝製品(貝錘・貝[…] 続きを読む ⇒

【市指定:有形民俗】スカプヤー御嶽~すかぷやーうたき~

スカプヤー御嶽

スカプヤー御嶽のある一帯は宮国元島である。スカプヤー御嶽はンナフカ祭りの根所として住民の尊崇する御嶽である。この御嶽には、白鳥と化して飛んできたルリツボの伝説があり、毎年9月中乙卯から未の3日間は牛馬も外へ出さず、ンナフカ精進をして祭りをすることになっている。このあたりの海岸は、昔の貿易場の面影を残[…] 続きを読む ⇒

【市指定:史跡】仲屋金盛ミャーカ~なかやかなもりみゃーか~

仲屋金盛ミャーカ

「仲屋金盛ミャーカ」は、忠導氏仲宗根家の東方、外間御嶽の北方にあって、忠導氏一門では、仲屋金盛の墓と言い伝えている。墓の規模や形態は、大半が土砂に埋もれて明らかでないが、石棺の蓋と思われる縦210cm、横120cm、厚さ22cmの巨石が露出している。仲屋金盛は、16世紀初頭に宮古島の主長であった仲宗[…] 続きを読む ⇒